1926年 京都府相楽郡大河原村南大河原(現・南山城村)生まれ。小学校校長の長男。三重県名賀郡古山村菖蒲池(現・伊賀市)で育つ。
1938年 旧制上野中入学。同校で書を松永楳園に、油絵を佐々木三郎に学ぶ。
1943年 上野中卒業。
1943年 三重師範学校(現・三重大学教育学部)入学。三重師範在学中に学徒出陣で徴兵され、沖縄に派遣される予定だったが、艦船がなかったために鹿児島で足止めされ、鹿児島で敗戦を迎える。敗戦と同時に三重に帰郷し、聴講生として京都大学文学部の井島勉に美学を学ぶ。隣村で国民学校(小学校)の教員として勤務し、教員時代には公立 学校の教職員組合活動にも参加したことがあった。
1960年代 大阪市立真田山小学校教諭を務める。
1971年 大阪成蹊女子短期大学教授。次いで、平成に入り5年間、近畿大学文芸学部芸術学科教授を務めた。
1946年 奈良国立博物館の第1回正倉院展を観に行った足で奈良在住の書家・辻本史邑に入門し、書の道に入る。日本書芸院展に出品した漢詩で推薦一席(最高賞)を1951年から2年連続で受賞するなど20代の頃から頭角を現す。師の辻本の死を機として1958年に日本書芸院や上田桑鳩の奎星会を退会し、書壇から退く。
書壇から退いた後は自身で団体を立ち上げる。団体名は順に「山径社」「墨象展」「墨の芸術展」「莫門展」「墨象展」と複数回変項、差し戻しされた。教授を務めた近畿大学出身の弟子が多く、岸玲州、喜家村信一、荻野丹雪(以上近畿大学講師)、末弟には川合正宏(近畿大学卒)が居る。歴代の東大寺管長も莫山に師事した。
故郷の伊賀から大阪へ移住し、大阪市や八尾市に居住し、作品を創り続けていたが、やがて故郷の伊賀へ戻り、伊賀で作品を創り続けた。
50歳を過ぎて自然豊かな故郷の伊賀に戻ってからは、山野を歩き、自然に着想を求めた素朴な画にフレーズを添えた独特の書画世界を確立した。
2010年10月3日、急性心不全のため、奈良県天理市の病院で死去。84歳没。